みどりと水鳥の里 山口まちづくり推進協議会

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第1日曜日、第3土曜日、第2、第4木曜日 (平成29年4月変更になりました。)



山口民俗資料館開館日のご案内

 山口氏の墓塔、時は永徳三年(1383)古位脾と宝篋(ほうきょう)印塔が永徳三年六月十三日と刻まれ山口氏の菩提寺、岩崎瑞岩寺に残っています。長きにわたって築かれた山口城と周囲の村が落城とともに変貌の日を迎えることとなった時であります。

 鎌倉公方足利氏-関東管領上杉氏という体制が確立する頃、武蔵・相模の一大勢力の平氏の流れをくむ一族が守護職人事に不満を抱き、応安元年(13682月頃から鎌倉から河越(川越)迄の道筋で戦いが頻発しました。その時、山口氏のひとり山口高清は河越(川越)で戦いに挑み、討死します。城に残った妻子は古井戸か池か定かでないが、身を投げ悲しみの最後を遂げたと伝えられています。高清の父高実も鎌倉公方に反抗して永徳三年(1383)河越(川越)の戦いに出向きましたが、その隙に山口城は北条氏に攻め落とされたと伝えられます。

 その後、幾度となく城郭態勢を整え再興を企てましたが、叶わず山口城は1590年に滅城。そして1591年、山口地域のうち、堀口村、町屋(現在の町谷)村、大鐘村が江戸幕府成立、徳川氏の直轄知行地になり「山口郷」の時代となります。今でも山口城跡の辺りは「ちごいずみ又はこいずみ」と言われますが、文字は一般的に「児泉」と書きます。「稚児泉」と伝える文献もあります。

 次回は発掘調査結果より山口城の当時の規模や様子について迫ります。お楽しみに!
岩崎瑞岩寺に残る山口氏の墓塔

シリーズ35 行って見よう 
        
山口の自然と歴史 
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自然と歴史
所沢消防団第7分団
所沢市

      山口城跡(やまぐちじょうあと) その3